特集/生物多様性回復のために~愛知目標からの10年とこれからの10年に向けて~生物多様性が豊かな社会を目指して
2021年06月15日グローバルネット2021年6月号
京都大学 霊長類研究所 所長
日本生態学会 会長
湯本 貴和(ゆもと たかかず)
2010年に愛知で開かれた生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)では、生物多様性の損失を止めるために、世界各国が2020年までに取り組むべき20の目標「愛知目標」が採択されましたが、完全に達成できたものはゼロという評価が昨年同条約事務局より公表されました。この愛知目標を継ぐ、2030年を目標達成年とする「ポスト2020生物多様性枠組み」が、今年10月に中国・昆明で開催されるCOP15で決定されることになっています。
本特集では、COP15を4ヵ月後に控えた今、生物多様性の重要性について改めて考え、愛知目標以降の取り組みを振り返り、さまざまなステークホルダーは今後どのような行動が求められるのかを考えます。
新興感染症は人獣共通感染症
イスラエルの歴史学者・哲学者ユヴァル・ノア・ハラリは話題書『ホモ・デウス』で、飢餓・伝染病・戦争という三つの脅威をすでに人類は克服して、いまや不死と至福を目指すと述べた。この本の米国での出版が2017年2月だが、それから何年も経たず、世界が新型コロナウイルス感染症に翻弄されることを誰が想像しただろうか。
実は2019年末から全世界を襲っている新型コロナウイルス感染症だけでなく、前世紀から新興感染症が次から次へと生まれ、グローバル化した世界を脅かしてきた。エボラ出血熱、マールブルグ出血熱、ニパウイルス脳炎、ウエストナイル熱、重症急性呼吸器症候群(SARS)、中東呼吸器症候群(MERS)、ジカ熱など世界を震撼させた新興感染症は数多い。
これら新興感染症は人獣共通感染症と呼ばれるもので、原因となるウイルスは生態系内で野生動物と共存してきた。ウイルスは自分自身だけでは生きていけず、複製のために宿主を必要とする。宿主が死ぬと、自らも死ぬ。したがって、宿主が死なないうちに他の宿主に自らのコピーを移す、すなわち感染させなくてはならない。ウイルスは、宿主にあまり害を与えない方向に進化する。宿主ができるだけ長生きし、元気に活動してウイルスを長期間広範囲にばらまくようにさせるのが、ウイルスの戦略だ。一方で宿主の方でも免疫系の働きで、特定のウイルスへの耐性を得る。このように、あるウイルスに感染しても発症しないか、軽い症状にとどまるように進化した宿主を自然宿主という。
わたしたちにとって脅威なのは、別の生物を自然宿主とするウイルスに感染することである。多くのウイルスは自然宿主に感染している場合には大した症状を出さないが、別の生物に感染するとたちまち劇症化することがある。突然変異がなくとも、同じウイルスが宿主によって病態を著しく変えるのだ。他の生物を自然宿主とし、偶発的にヒトに感染して重篤化するのが、新興感染症の正体である。
新興感染症は生態系からの警告
いくつかウイルス感染症の例をみよう。エボラ出血熱は、エボラウイルスによって発症し、主として感染者の血液や排せつ物に触れて感染する。最初は1976年にスーダンとザイール(現コンゴ民主共和国)で大流行し、致死率はスーダンで53%、ザイールで88%と極めて危険な伝染病として、アフリカ諸国を恐怖に陥れた。その後、コンゴ民主共和国とウガンダで中規模の流行を繰り返し、2014年に西アフリカ諸国でパンデミック発生、28,512名が感染、うち11,313名が死亡した。2018~19年にはコンゴ民主共和国でパンデミック発生、とくに紛争地帯である北キブ州周辺で3,864名が感染、うち1,224名が死亡した。エボラウイルスの自然宿主は、オオコウモリ類であると考えられている。
アジアでは1998~99年にかけてマレーシアの養豚業で、動物種を超えて感染する未知のウイルスによる重篤な脳炎が発生した。患者265名のうち105名が死亡し、直接の感染源であるブタ90万頭が殺処分された。感染したブタの体液や排せつ物に接することで、ヒトに感染が広がった。原因として新たに発見されたニパウイルスも、オオコウモリ類が自然宿主であることが確認されている。人間がオオコウモリの生息地である熱帯林を開いて養豚場を造ったため、オオコウモリでは発症しなかったニパウイルスがブタ、そしてヒトへと飛び火し、熱帯アジアを震撼させる感染症となった。
新型コロナウイルス感染症でとくに注目されたのは、野生動物が食用として人間社会に入るリスクである。新型コロナウイルスは、コウモリからセンザンコウを通じて中国食品市場に入り込んだのではないかと疑われている。重症急性呼吸器症候群(SARS)でも、食用で売られるハクビシンからの感染が疑われた。これらの指摘を受けて、2020年2月末、中国全国人民代表大会は、野生動物を食べる習慣の根絶や野生動物の全面的な取引禁止を決めたとされる。
農業や牧畜業では、過去数百年にわたって、コムギ・トウモロコシ・イネあるいはウシ・ブタなどの少数の生物種を世界中に広げ、人為的に野生生物を減らすことで、食料生産性と労働効率を高めてきた。多くの野生生物は雑草・害虫・害獣とされ、農業生態系での生物多様性は著しく減少した。人類は自らの人口を増やすと同時に家畜数も大幅に増やし、いまや家畜は哺乳類のバイオマス(生物重量)の60%を占める。ヒト自体のバイオマスが36%なので、野生の哺乳類はわずか4%だ。
多数の家畜は、それらを利用する病原体にとって好条件である。口蹄疫やアフリカ豚熱(ASF)などのまん延がそれを顕著に示している。その結果、人獣共通感染症が人間にも拡大するリスクが確実に増加している。今回のコロナ危機を含む新興感染症の波状攻撃は、人間活動による地球規模の大きな環境変化によるものであり、生態系からの警告であるといえる。
野生動物はわたしたちの「敵」か
では人獣共通感染症防止のために、自然宿主である野生の哺乳類を「敵」として撲滅することが望ましい解決策か。今回の新型コロナウイルスに関して、世界各地で自然宿主とされるコウモリの迫害が起こっている。国連環境計画は、コウモリが直接、新型コロナウイルスのヒトへの感染を広めている事実はないとした上で、コウモリは花粉媒介や種子散布などで有用植物の繁殖を手助けし、害虫を捕食して駆除するなど、年間数千億円相当の利益を人間社会にもたらしていると言明した。そしてコウモリの殺りくは新型コロナウイルス感染症の拡散に対し何の抑制効果もないばかりか、生態系でのコウモリの存在で得られる経済的価値を大きく損ねると警告した。
2016年末からブラジルで14年ぶりといわれる黄熱の流行がみられ、都市部での感染拡大が懸念される事態となった。黄熱は蚊が黄熱ウイルスを媒介して感染が広がる。サルもヒトと同様に黄熱に弱く、このブラジルの流行ではホエザルを含む数千頭のサルが黄熱で死亡した。ブラジル東南部では、サルが感染源だと考えた住民がホエザルを銃で撃ったり、撲殺したりする事件が相次いだ。しかし、研究者たちはサルが黄熱ウイルスの自然宿主ではなく、むしろ森にサルがいなければ、ヒトが発症するまで黄熱ウイルスの感染拡大を検知できないため、都市に感染が広がる危険が増すとした。「炭鉱のカナリア」論である。昔、炭鉱労働者がカナリアを籠に入れて坑道に入り、有毒ガスが発生したらカナリアの鳴き声が止むので危険を回避したという逸話である。
SDGs(持続可能な開発目標)の17個の目標の中で「陸の豊かさも守ろう」は他の目標と逆行することが多い。「貧困をなくそう」や「飢餓をゼロに」では、生物多様性の高い自然林を農地・牧地に転換する。「エネルギーをみんなに、そしてクリーンに」で、大規模な再生可能エネルギー施設やバイオ燃料作物のプランテーション開発で、しばしば生物多様性の高い自然を破壊する。
生物多様性の機能的価値や遺産的価値は、これまでもさまざまに論じられてきた。それに加えて、「炭鉱のカナリア」のように生物多様性の指標的価値は、もっと注目されるべきだ。ちょうど国籍や性的指向、心身障害などのダイバーシティを尊重することがすべての人びとが安心して暮らせる社会的包摂の指標となるように、生物多様性が保持される生態系が人類の生存にとっても良好な環境であることの指標となる。
いま地球上に存在する生物多様性を保持することは、今後起こり得るさまざまな変化に対してレジリアンスが高く、将来世代にオプションを残すことにつながる。SDGsの本質は、一つひとつの目標を達成するだけでなく、前記のような相矛盾する目標を同時に達成することであり、その矛盾を乗り越えてこそ、SDGsの究極的な目的である「誰ひとり取り残さない」世界が実現されるのだ。