日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第35回 カツオ漁でつながる宗田節とジョン万次郎―高知・土佐清水
2020年02月17日グローバルネット2020年2月号
ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)
高知県西端の柏島(前回取材)を出て、車は太平洋沿いの海岸線(国道321号線、愛称足摺サニーロード)を東に走った。大型の台風19号の接近で、山のような大波が寄せるのを横目に、目指したのはカツオ漁の歴史や明治維新で活躍したジョン万次郎で知られる土佐清水市。元カツオ漁船通信士で漁業史研究家の植杉康英さんに案内をお願いした。2003年に植杉さんが指導している小学生対象のカツオ一本釣りの疑似体験を取材したのがご縁で、その後も高知県の水産情報などを提供してもらっている。
●漁獲量・製造とも日本一
土佐清水市の水産品では、立縄漁という独特の漁法で一匹ずつ釣り上げたゴマサバのブランド「土佐の清水さば」や宗田節が有名だ。宗田節は近年メディアなどで話題になっている。宗田節の原料であるマルソウダは5~6月に産卵のために足摺岬の沖合に来遊する。土佐清水市は水揚げ量が全国一。生産される宗田節の7割が土佐清水で生産されるという。
マルソウダはソウダガツオの一種で地元ではメジカ、宗田節はメジカ節とも呼ばれる。宗田節はかつお節と同じような方法で製造され、完成品は十数㎝の木片のような形状。削ってだしを取り、そばやうどんをはじめ、料亭や飲食店などの和食に広く使われている。うま味にこだわるプロの料理人の調味料だ。
土佐清水市内には節納屋と呼ばれる十数軒の加工業者があり、代表的な「たけまさ商店」を訪ねた。1912(大正元)年創業で初代勘次がかつお節作りの製法を取り入れ、足摺岬沖で豊富に捕れるマルソウダを加工したのが始まりとされる。代表の武政嘉八さんは三代目で土佐清水鰹節水産加工業協同組合代表理事。奥さんの恵美さんとともに加工場の説明をしてもらった。
海が見える作業場を訪れたのは夕方で、マルソウダ約2tがコンテナの氷水に入っていた。「不漁で心配しましたが、少し離れた大月沖の定置網で捕れたものです」と、原料確保に安堵の表情。武政さんが氷水の中から手に取って説明したマルソウダは30cm前後で、カツオに比べると小ぶりでスマートな体形だ。
加工作業は翌日から始めるといい、まずかごに入れた魚をさっとゆがき(釜立て)、次に釜で1時間ほど煮る(煮熟)。ゆで上がると魚の頭や骨、内臓を取り除き、籠に並べて焙乾室で燻して水分を飛ばす。1週間ほどして取り出し、小さくなった節をさらに天日で乾燥させると荒節の完成だ。
釜や焙乾室は魚の脂やあくのために、どれも真っ黒。100年以上前から変わらない製法で丹精込めて作られていることがわかる。製造過程で出るアラは乾燥して畑の肥料に、灰は徳島の藍染めの原料になるという。
荒節は加工業者に販売していたが、11年前から付加価値を高めた一般向け商品の直販を始めた。節を厚く削ったもの、薄く削ったもの、粉末など10種類ほど。節を少し小さくしてしょうゆ瓶に入れる「手作りだし醤油セット」はしょうゆをつぎ足し約1年間も楽しめる。一連の商品は県内のスーパーなどのほか、ネットでも販売している。
プロの調味料である宗田節を土佐清水の特産品としてさらに認知度を高めようと、行政や漁協なども支援している。「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されるなど、だしに対する関心が高まっており、宗田節に追い風だ。
土佐清水には江戸時代に紀州(和歌山県)からかつお節の製造法が伝わり、要となるカビ付け技術が洗練されて高品質のかつお節を生産するようになった。1800年代初頭の「諸国鰹節番付表」には「清水節」が最高位の大関にランクされている。昭和初期までかつお節製造は盛況だったが、カツオの漁獲が減少したため、カツオと同じサバ科で漁獲がマルソウダを原料にする宗田節への移行が進んだ。
植杉さんは「土佐清水のカツオ漁と加工技術の輝かしい歴史は、地元の人びとの努力によって現在の宗田節にしっかり継承されている」と解説する。
●幕末期の貴重な人材に
武政さんの節納屋など宗田節工場が集中している市中心部の中浜地区は、ジョン万次郎の生まれ故郷でもある。万次郎はこの地名を名字として中浜万次郎と名乗った。
市街地西のあしずり港にあるジョン万次郎資料館を訪ねた。映画館のスクリーンのようなしゃれた外壁にアメリカ人から呼ばれた名前John Mung(ジョン・マン)の文字。館内も豊富な資料がそろっていた。
万次郎は漁師の二男として生まれ14歳のとき、初めての漁で遭難。5日半(10日間という資料も)の漂流の後、伊豆諸島の鳥島に漂着した。この島は、実話を基にした小説『漂流』(吉村昭)の主人公、土佐の船乗り長平が1785(天明5)年に漂着、12年4ヵ月も取り残された島だ。万次郎は運よく143日を過ごした後にアメリカの捕鯨船に救出された。アメリカ本土に渡ると、捕鯨船の船長の養子となり、教育を受け優秀な成績を挙げた。その後、船員などとして生活した。
やがて母国日本に戻ることを決心し、カリフォルニアの金鉱で得た資金を元手にハワイへ向かった。そこでボートを購入するなど大冒険の末、1851年、琉球(沖縄)に戻った。遭難から10年が経過していた。
薩摩(鹿児島)などで調べを受けた後、土佐に戻ると、翌年に藩校「教授館」の教授に。さらに1853年のペリー来航と風雲急を告げる時代に、幕府直参旗本に抜てきされるなどして活躍した。米国の文化、社会事情の知識や英語力があり、岩崎弥太郎、勝海舟らに米国の情報などを提供した。勝海舟が艦長を務めた咸臨丸の案内人も務めた。こうした功績から「幕末の日本に世界を伝えた国際人」と評されるのも当然だろう。
なぜ土佐清水が稀有なこの人物を輩出したのか。「かつて漁師は暴力を伴う厳しい親子関係が普通だった。漁師の子は他の職業を選べず、自由な発想を持つことすら許されなかった。だが万次郎は早く父親を亡くしたこともあって、好奇心や反抗心を失うことがなかった。そこに土佐漁師の強い精神力が合わさり、奇跡のような偉業を成し得たのではないか」。植杉さんは同じ土佐清水で生まれた漁師の視点から推測する。
●大河ドラマ化望む地元
漁師町の雰囲気が残っている周辺で、復元された万次郎の生家を訪ねた。記念碑なども見て、さらに万次郎の銅像がある足摺岬へ。夕暮れと強い風の中、太平洋の方向を向いた銅像を見上げ、展望台から灯台を眺めた。眼下の海は、白波が牙をむいている。鳥羽一郎が歌う『足摺岬』(作詞星野哲郎、作曲岡千秋)と同じ自然の素顔。さらに歌詞は「俺も行きたや 万次郎さんの花と嵐の人生を」と続く。現在、土佐清水市や高知県は「ジョン万次郎NHK大河ドラマ化実現高知県実行委員会(名誉会長は高知県知事)」を組織し、署名活動を展開している。今年の主人公明智光秀に「次は土佐清水にあり」と言わせたい。