21世紀の新環境政策論~人間と地球のための持続可能な経済とは第39回 気候正義とエコロジカルシチズンシップ
2020年01月15日グローバルネット2020年1月号
京都大学名誉教授
松下 和夫(まつした かずお)
はじめに
タイム誌の「今年の人」に選ばれたスウェーデンの16歳の環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんは2019年9月の国連気候サミットでの演説で次のように訴えた。
「あなた方は私たちの未来を奪っています。もし私たち若者を裏切るなら、私たちはあなた方を絶対に許しません。たくさんの人が苦しみ、死にかかっています。生態系全体も崩壊しつつあります。あなた方はお金のことや経済成長が永遠に続くかのようなおとぎ話しかしていません。もう30年以上も、科学は明確に(危機を)伝えてきました。あなた方はそれを顧みようとせず、必要な解決策は未だ見えてこないのに、自分たちはもう十分対応しているなどと言うとは、なんと無神経なのでしょう」。
実は閉鎖系としての地球の中で、無限の経済成長が不可能であることはすでに50年以上前に、アメリカの著名な経済学者ケネス・ボールディングが、「来たるべき宇宙船地球号の経済学」(1966)と題した論文で警告している。彼は「宇宙飛行士経済」を提唱し、「地球は一個の宇宙船。無限の蓄えはどこにもなく、採掘するための場所も汚染するための場所もない。したがって、この経済の中では、人間は循環する生態系やシステム内にいることを理解する」と指摘している。そして「指数関数的な経済成長を信じているのは、狂人かエコノミストのどちらかだ」と喝破したことでも知られている。
ところが現在でも物質経済は際限なく成長を続けることが可能で、経済成長がすべての問題を解決するとの神話は依然として健在だ。むしろ「今だけ、金だけ、自分だけ」の短期的利益追求型のむき出しの新自由主義的経済活動がますます主流となっている。本来は地球環境の持続可能性という制約の中で、人びとが基本的人権を守られ、人間的な生活(厚生)を持続して維持し発展できる社会の構築こそが望まれるのである。
グローバリゼーションと地球環境
グレタさんは将来世代に対する私たちの世代の責任を強調した。地球環境問題のもう一つの課題は、気候正義と称される世代内の格差解消と公平性確保だ。
地球環境の破壊と世界各地の地域共同体の崩壊を加速しているのがグローバリゼーションの進展である。グローバリゼーションとは、貿易・投資・情報移動の加速化などによって地球規模での経済的な一体化が進むことを指す。グローバリゼーションを特徴付けるのは、相互依存関係や情報化、ネットワーク化である。これらは中立的な響きだが、実はグローバリゼーションの恩恵を享受することができた企業や地域(「グローバル化している者」)がある一方、その恩恵に浴せず、むしろ生活基盤やセーフティーネットとしての地域共同体が損なわれ自然資源が急速に劣化している地域(人びと)(「グローバル化された者」)がある。
その背景をユルゲン・トリッテン(元ドイツ連邦環境相)は次のように述べる。「地球は国際取引の競技場と化した。そこには地球環境の有限性に目を向ける、十分な競技ルールや決定権を持つ審判は存在しなかった。そこには強者の権利だけが優勢であった」「グローバリゼーションは、競争の結果でもなければ、市場への参加者に平等な機会が与えられた結果生み出されたものでもない。むしろより強者の立場(にある国や機関)の補助金制度によって生まれたものである」。
「グローバル化している者」と「グローバル化された者」の対比に示されるグローバリゼーションの特徴は、ヴァンダナ・シヴァ(インドの環境活動家)が言うように、グローバリゼーションの構造の非対称性にある。すなわち、「グローバルな環境構造は北の選択肢を増大させる一方、南の選択肢を狭めている。グローバルな勢力範囲を通じて、北は南の中に存在するが、南はそうした勢力範囲を持たないために、それ自体の中でしか存在し得ない。北はグローバルに存在し得る一方、南は地域的にしか存在し得ない」。空間と時間がボーダーレス化し、多国籍企業や金融業が空間を自由に移動することができるようになったことにより、地域住民、農林業者あるいは地域の労働者のような特定地域に拘束されている人びとは、より激しい競争圧力にさらされることとなったのである。
気候変動問題はグローバル化による影響が非対称的に現れる典型的な例である。グローバル化した国(主として先進国)における国民の日常の経済活動が、経済的にも環境的にも脆弱な他の国(例えば太平洋の島しょ国)の環境と生活にさまざまな影響を及ぼす。先進国の大量の化石燃料使用が、気候変動の主な原因となり、遠い国の人びとの生活に悪影響を及ぼすことは、グローバリゼーションの非対称性を端的に示している。
エコロジカルシチズンシップ:市民の権利と義務
アンドリュー・ドブソンは『シチズンシップと環境』で、「エコロジカルシチズンシップ」の概念を提唱している。個々人が自己利益の最大化を目指す「利己的合理的主体」であると想定すると、持続可能性に向けた行動変化を促すには、経済的なインセンティブを設けることが効果的となる。
ドブソンはエコロジカルな市民は経済的インセンティブに単に表面的に反応するのではなく、エコロジカルな価値や目的にコミットしたいという思い、すなわち持続可能性という理念に共感して行動するとしている。ドブソンによると、利己的合理的主体モデルに基づく経済的なインセンティブという手法の機能には限界があり、「消費者は、彼らが負担するインセンティブの基本的原理に思いを寄せ、それを理解したり、関わろうとしたりせず、うわべのシグナルに反応しようとするだけである」とし、「他方、エコロジカルな市民は、その理念に関わろうと努め」ているとしている。そしてそのような市民の行動を説明する概念としてエコロジカルシチズンシップを提唱しているのである。
ドブソンが国境の概念を取り払った義務や責任のよりどころとしたのは、ワケナゲルなどが提唱したエコロジカル・フットプリントの概念である。エコロジカル・フットプリントは、人間活動により消費される資源量を分析・評価し、人間活動の自然環境への依存度を、主として自然資源の消費量を土地面積で表すことにより、定量的に伝える指標である。ドブソンは、エコロジカル・フットプリントという物質代謝的概念を介して、シチズンシップを「国際的かつ世代間の広がりを持ったシチズンシップである一方、その責任は非対称的である」ことを示そうとしたのである。
ドブソンの提唱するエコロジカルシチズンシップは、グローバル化した環境問題に対する市民の義務に関する一つの倫理的な説明としての意味を持ち、とくに、国際条約で各国の責務を議論する際の衡平性概念と気候正義のひとつの論拠を提供するものとなっている。
ドブソンは「エコロジカルシチズンシップは社会が自らをより持続可能にする資源のひとつである」と述べている。環境問題をシチズンシップという枠組みを通してみると、権利と責任があり、その義務の重要な一部が、持続可能な社会の仕組みを構築していくために働き掛け貢献していくことである。すなわち、市民の環境保全の責任は、自らの行動を環境配慮型にすることにとどまらず、社会的共通資本である良好な環境を管理するルール作りに積極的に関与し、必要な規制や経済的インセンティブなどの政策形成を通して、持続可能な社会を構築していくことにもあるのだ。
国民の権利と義務を調整し、社会の方向を変える政策を決定するのは最終的には国の役割である。国の政策形成を受動的に受け止めるだけでは、市民は傍観者的な役割でしかない。しかしながら、エコロジカルシチズンシップに立脚した市民は、社会をより持続可能にするために働き掛ける能動的な気候正義を実現する主体であり、社会の仕組みを変革していく可能性を持っている。彼らは直接的な利害関係が相反し、合意形成が困難である制度変革に対しても、持続可能性の実現という観点からその受容性が高いであろう。これがドブソンの「エコロジカルシチズンシップは社会が自らをより持続可能にする資源のひとつである」ということの意味である。