アグラ城

(文化遺産、1983年指定)
Agra Fort

  1558年にムガル帝国は首都をデリーからアグラへ移した。そして王宮と城塞の両方の機能を持つアグラ城が1564年から1574年にかけてムガル第三代皇帝アクバル(1542〜1605年)の治世に建設された。建物の一部には後のシャー・ジャハン帝(1592−1666年)の時代に建てられたものもある。ヤムナ川と濠に囲まれ、高さ20mの城壁を持ち、外敵が容易には近づくことができない(写真27)。城塞としての機能を十分に備えている。

アグラ城
写真27 アグラ城外壁。向かって右側の張り出し部分はサマン・ブルジュ(囚われの塔)。この部屋に幽閉されていた彼は妻の墓廟であるタージ・マハルを見ながら息を引き取ったと伝えられている。

ディワーニ・アーム

写真28 ディワーニ・アーム側面。皇帝はこの部屋の中央奧に座り謁見した。建物のなかではどこにいても皇帝の声がよく聞こえるように設計されている。

アクバルの思想を反映した建築
  アクバルは歴代ムガル皇帝の中でも唯一人「大帝」と呼ばれる。彼は父フマユーン帝の死後、若干13歳で王座につき、権力を掌握し、領土支配を広げた。しかし軍事力だけではインド民衆の心をつかむことはできないと悟り、イスラム王朝ながら、彼はヒンドゥー教をはじめとする他の宗教との融和をはかった。アグラ城の建築にもこのアクバルの思想が伺える(写真29)。
  例えば、柱の飾り彫刻に、イスラム建築では禁止されている象の姿が彫刻されている。建築材は赤砂岩が基本で、宮殿部分は大理石作りである。装飾には別の色の石を埋め込む細工が多用されている。頻繁に増築や改築が行われてきた砦である。
  アグラ城はシャー・ジャハン帝の時代に最も豪華な部分が加えられた。王の謁見の間ディワニ・アーム、ここは大理石の柱とアーチが幾重にも重なる美しい広間である(写真28)。

王宮の回廊
写真29 アグラ城王宮部分の回廊。イスラム建築では通路に尖状アーチが多用されるが、この一階の出入り口は尖状アーチではなく、上部に複雑な彫刻が施されている。このような凹凸の多いデザインはヒンドゥー建築を取り入れたためである。

  私的な謁見の間カース・マハルはヤムナ川を一望できる場所にある。白大理石づくりの床や壁に赤や青の石を埋め込んだ象嵌細工は花や草を表している。その隣、城壁の外に張り出した部屋はサマン・ブルジュ(囚われの塔)と呼ばれる。晩年、シャー・ジャハン帝は息子アウラングゼーブに皇帝の座を奪われ、この部屋に幽閉されてしまった。この部屋からは外を眺めると正面のヤムナ川沿いにタージマハルの白い姿が見える。彼は妻の墓廟であるタージ・マハルを見ながら息を引き取ったと伝えられている。

兵舎になった文化遺産
  19世紀にイギリス軍に占領されてから、アグラ城は兵舎として使われ、建物の一部が壊された。周囲の建築とは似つかないバラックが建てられていた。現在でも旧兵舎部分はインド軍が管理している。現在は周囲2.4qだが、本来は5qあったという。
 この遺跡を管理するインド考古調査局(ASI)によると周りが濠で囲まれているため、湿気による影響があるという。コケや雑草が石の間から生え、石を割ってしまう。また、遺跡が広大で管理が行き届かないという問題点もある。

参考文献:
渡辺建夫『タージ・マハル物語』朝日新聞社、1988年。
Lall, John; Dube, D.N., Taj Mahal & The Glory of Mughal Agra, Lustre Press, New Delhi, 1991.

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