サヘル地域におけるNGOの役割
(緑のサヘル代表 高橋一馬、平成10年度 砂漠化防止対策推進支援調査業務報告書より)
1983年から84年にかけてアフリカを襲った大旱魃は、各地に於いて多くの人命を奪い、人々は家畜や財産を失うなど大打撃を被った。とりわけ、サヘル地域は水・土壌・植生などに於いて脆弱な生態系の上に成り立つ地域であるだけに、その被害も甚大であった。こうした状況はテレビ等のメディアを通じて全世界に報じられ、被災民に対する積極的な救援活動が国際的に展開された。我が国でもアフリカ月間や毛布を送る運動などのキャンペーンが官・民をあげて繰り広げたことは記憶に新しい。
旱魃被災者に対する緊急救援活動は主として食糧配給、水、医療の分野で行なわれ、政府間援助や国連・国際機関と、先進国側NGOがその実施の中心であったが、国際社会の懸命な支援と、その後の比較的順調な降雨がもたらした良好な穀物生産によって、食糧事情が次第に緩和されるにつれ、こうした緊急救援は終息に向かった。これに伴い、強固な人道的精神に支えられ、フットワークのよさを活かして被災地域の辺境部にまで入り込み、被災民に相対して各団体の特色を反映した多彩な活動を展開していたNGOも、”救援”から”開発”へと活動の中心を移していくことになった。
現在NGOは村落やコミュニティーレベルの飲料水、食糧という生存の基礎的分野はもちろん、保健衛生、女性の地位向上、識字教育、インカムジェネレーティング、環境保全、農道整備など地域社会の抱える共通な課題に着目しその改善に努めている。活動手法も従来のトップダウンではなく、行政や伝統的権威と協力しながらも住民を組織し、活動への参加を促す「住民参加」が中心となりつつある。
一口にNGOと言っても、設立の経緯や活動の内容、規模、手法もそれぞれ異なっている。例えば欧米のNGOには、特定の村や郡、あるいはエスニックグループを対象とするものや、宗教、とりわけキリスト教を背景とする神父や牧師など伝道者自身が中心となっている小規模な団体もあるが、概してOXFAM(オックスファム)、Save the Children(セイヴ・ザ・チルドレン)、CARE(ケア)など巨大な組織力と資金力を持つNGOが多い。これらの団体は世界各地での豊富な活動経験を生かし、CILSS(シルス、サヘル諸国旱魃対策委員会)に加盟するサヘル各地域に於いて果敢に活動を行なってきた。
ローカルのNGOには、伝統社会を尊重し、相互扶助の精神をもとに、地域社会が内包する固有の問題に対するものが多いが中には、地縁、血縁、個々の人間関係など複雑に織り成すしがらみを越え、環境保全や生活改善事業を着実に実施している団体もある。しかし、資金的に非常に厳しい状況に置かれ、地域に根ざした活動を充分に出来ないでいるケースが大多数である。
こうした全てのNGOを詳細に述べることは不可能であり、ここでは多くのNGO活動の中から代表的と思われる2例の紹介と、日本のNGOの活動状況について述べることとする。
(1)国際的NGO CARE Internationalの事例
CAREは、戦後の復興をめざして第二次大戦直後にアメリカで創造されたNGOで、壊滅的な打撃を受けたポーランドなどのヨーロッパばかりでなく、日本でもパンやミルクの配給を行なう等、大きな役割を演じた。その後も世界各地の自然災害や紛争による被災地で救援活動を行ない、サヘル地域でも1960年代後半から73年にかけて受けた旱魃にも、各地で活動を行なっている。
防風林群で知られる”マジアの谷”のプロジェクトは、アメリカの平和部隊のメンバーによって始められた後、旱魃終期の1973年にCAREに引き継がれ、これまでサヘル地域に試みられた多くの植林事業の中にあっては、数少ない成功例の一つとして、国際的にも高い評価を受けている事業である。
この谷は、ハルマッタンと雨期のモンスーンの風向きと同じ方向に開け、人々はソルガムやミレットの耕作と牧畜の半農半牧で生計を立てている。事業は、旱魃によって手痛い被害を被った農民が、農地保全の必要性を自覚し支援を要請したことから始まった。防風林は谷を横切って長さ1kmほどで設置され、主にニーム(Azadirachta indica)とアカシア・ニロチカ(Acacia nilotica)の2列によって成っている。各列は100mピッチで延べ339kmに渡って整然と植えられ、植え付け後3年間は家畜の食害を防ぐため有給の監視員の配置を行なった。この防風林は3,390haを保護し、1979年の調査では土壌水分の蒸発が抑えられたことにより、樹蔭に伴う収穫減を差し引いても、23%の生産実増があったという。
(2)ローカルNGO:FUGN(Federation des Unions des Groupement NAAM)
NAAM(ナーム)とはモーレ語で「若い農民」という意味である。1967年、現代表のベルナール・ウエドラオゴ氏のイニシアチブにより、伝統的な農村社会の相互扶助組織を母体に結成された。組合数3,604団体、約23万人の農民が加盟(FUGN 1993/1994)する、ブルキナファソでも代表的な農民組合組織である。NAAMの基本哲学は、伝統社会に固執することなく、かつ急速な近代化(西欧化)でもない、「調和の取れた内発的発展」である。社会や個人の抱える問題は自己の責任で解決すべきであり、そのためには適切な言葉、まごころ、分かち合い、相互信頼、適切な技術の5点を持って対応すべきであるとし、そして困難に立ち向かい、何とか自ら立ち上がろうと努力する人に対しては、ほんの少しだけ、ウエドラオゴ氏の言葉を借りれば”第3の手”を差し伸べることであるとする。
NAAMの活動は
@研修は、自己責任と分権化による自立化へ向けた必要な知識の取得を目指し、野菜栽培、牧畜、乾燥野菜(食品加工)、機織り、染色など生産技術部門、小規模クレジット(農村信用)、穀物銀行や製粉機信用など農民組合の組織運営部門、識字教育部門、アグロフォーレストリー、水利等の環境保全部門、視聴覚部門に及んでいる。
A環境保全活動は、長期的視点に立脚したエコシステムの回復と、生産性の向上を目指し、石積み畦畔(ディゲット)、浸透堰などの工学的手法と植林、タピエルバセなど生物学的手法及び、堆肥等の施用による肥沃化増進をはかる。
B各種経済活動は、野菜栽培とヒツジの舎飼による肥育、農産物の共同販売、穀物銀行及び農村信用等により、各組合に経済力をつける。
C社会活動には乳幼児と小児医療、農村薬局、芸術、文化の向上などがある。
こうした諸活動は単独でというよりも、複数の分野が有機的に結びついて農村開発や、砂漠化防止・環境保全に相乗的効果を及ぼすものであるが、こうした活動をディゲット(石積畦畔)やザイ(Zai)といった伝統的技術に基づいた回復手法と結びつけ、穀物収穫後の乾期に共同作業で実施することで、農地、土壌、水の保全の他に出稼ぎ防止という視点ばかりでなく、若年層の農村への定着促進という社会的側面にも好影響を与えていることは注目に値する。
(3)日本のNGOの事例「サヘルの会の活動」
日本のNGOでサヘルを活動地域としている団体は少なく、活動内容を砂漠化防止関連に絞るとその数はさらに限定される。
サヘルの会は1987年に設立の後、マリ共和国ファギビンヌ湖北岸のティンナイシャ村における調査を実施、翌年より事業を開始した。林業面では村内に植林用の苗畑を開設し、ティンナイシャ村及びその周辺の地域への樹木苗の配布を行ない、地域住民の環境問題への啓蒙化を図った。また、旧湖底の畑においては農業環境を改善しつつ、防風、防砂帯へとつながるアグロフォーレストリー帯を造成し、同時に村内や砂丘帯の中に試験的な植林を行なった。農業面ではアグロフォーレストリー帯の中に村民の分譲菜園を作り、乾期に適した各種野菜の試験、節水農法の模索、住民への野菜苗の配布、作付け期の穀類その他の種子の貸し付けなどを行なった。
活動実施に当たっては、現地の人々の活動を手助けするを基本とし、住民個々の生活の改善を通して、安定した地域社会の回復を目指した。また資材についても、できるだけ現地で手に入るものを使用することを心がけたため、これらの活動は地域住民にも受け入れられるようになった。活動地も一点に集中するのではなく、点在する周辺地域にも小規模な活動を実施することによって、地域社会全体の向上を目指しており、活動地はティンナイシャ村を起点にズエラ、ティンナファラジ、ラゼルマ、ムブナなどファギビンヌ湖全域に広がっているのみならず、トンブクトゥ周辺にまでも及んでいる。
その後、マリ国内の部族間の衝突により、治安上の問題から1994年にファギビンヌ湖周辺の活動は一時中断されたが、治安の回復に伴い1998年に再開した。現在、”1村10本100ヶ村プロジェクト”をキャッチフレーズに、地域の負担にならない小規模植樹活動を多拠点で(100ヶ所程度の村・地区を対象に)無理のない植林活動を行なっている。
(4)カラ=西アフリカ農村自立協力会の活動
カラ=西アフリカ農村自立協力会は、メンバーがマリで貧困解消に取り組んでいた農村の現地NGOの活動に加わり、その後1992年に「マリ共和国保健医療自立を支援する会」として設立された。翌年、現在の名前に変更されたが、これは単なる名称変更ではなく、活動分野をより広く農村の自立に向けた支援を行なうと同時に、将来は西アフリカ全域を活動対象にしたいという現われである。
活動は初め、環境整備、保健衛生、適正技術が主であったが、活動拠点をバブグウ村(首都バマコから北東に約100km、年間降水量約600mm)に移し、現在では17ヶ村、32集落、約15,000人を対象としている。
活動内容は識字教育、環境整備活動、保健衛生環境改善活動、野菜園の造成、女性適正技術の普及と多岐に渡り、地域住民の総合的な生活改善を目指したものに貫かれているが、砂漠化防止活動という視点から環境整備活動を見ると
@育苗は4ヶ所に植栽用の育苗所を設け、果樹類を含め約16,000本(1997年)を育成した。
A植林は防風、防砂林や薪炭の森、アグロフォーレストリー、学校林の造成などであるが、学校林については実践を兼ねた環境教育の一環として、子供の頃から自然環境の保護の重要性について支援学習した後、4ヶ村(1997年)で実施された。
また、植林地では従来村民共有の財産として来たものと、植後の管理や伐採後の利用方法について、村民間に利害関係の対立やコミュニケーションが取り易くなるように配慮して新しい試みとして村民各々の個人所有にした。
B改良カマドの製作・普及 伝統的なミツ石カマドは薪の消費量が多く、年々減少する樹木を合理的に利用するために改良カマドの普及に努めている。改良カマドを使用することにより、約34%の薪の節約になることが調査の結果判明し、普及にも一層の力が加わった。
C深井戸の設置 年々降水量の減少に伴い、従来の浅井戸(深さ10〜20m)では乾期に水位の低下が見られ、中には枯渇する井戸もあるため、降雨量に左右されない地下水(化石水)を供給できる深井戸(深さ50〜90m)の設置を行なっている。深井戸は住民の民生用が主であり、清潔な飲料水の確保は病気や下痢などを防ぐ保健衛生の面からも重要である。それ以外にも植林や野菜栽培にも活用し、中でも野菜は不足する乾期でも栽培可能となり、収入増にもつながっている。
(5)緑のサヘルの活動
緑のサヘルは、アフリカ・サヘル地域の砂漠化防止と地域住民の食糧自給の達成を目指して、1991年に設立され、翌1992年からチャド共和国において@緑を積極的に殖やす努力、A緑を減らさない努力、B農業生産性の向上と生活改善の3点を基本とた活動を開始した。
緑を積極的に殖やす努力は、育苗所の運営と植林活動の活性化であるが、育苗については、早成樹種を含む外来種や果樹類と在来種を取り混ぜ、集中的に育成、管理し、苗木の配布、種子保存、育苗実務の研修を行なっている。育苗は、小規模村落育苗方式でも行われ、播種から植え付け、植後の管理に至るまでを各農民組合が責任を持つことを条件に、育苗資材の貸し付けと技術指導を実施している。最近では、育苗センターの比重を減らし、小規模育苗所での育苗に重点を移しつつある。
植林も村内居住区域や定期市場、街路、学校周辺なとの公共用地に加え、雑木林の造成に向けた植林区、あるいは穀物畑の中への植栽、つまりアグロフォーレストリーなどに力を入れている。特に拠点のあるバイリ村(首都ンジャメナから南へ約300km、降水量600mm〜800mm)はかつて綿花栽培も行なわれ、土地は酷使によって疲弊したまま放棄されているため、こうした荒廃地にアカシア・セネガル(Acacia senegal)の植樹を奨励している。アカシア・セネガルは植え付け後、約5年でアラビアゴムが採取可能となるが、1997年、最初の年に植えられた木から初めてアラビアゴムが採れた。
荒廃地や耕作地に植栽すれば、防風・防砂効果と土地の肥沃化という環境面へのプラスが期待できる上、高値で取り引きされるアラビアゴムは他に現金収入の道が少ない地域にとっては、経済的な福音ともなる。
緑を減らさない努力としては、改良カマドの普及がある。交通の要衝に位置し、急速な流入人口によって膨らんだこの地では、薪炭材の需要も急激に大きくなっている。そこで、従来の三ツ石カマドから熱効率も高く、薪の節約につながる改良カマドの使用をはたらきかけてきた。これまで行なった数回の調査の結果からは、改良カマドの使用によって35%から50%の薪の節約になることが判明しており、一方に於いて木を植えつつ、他方で木を伐らない努力を同時に平行して進め、緑の回復を図っている。
緑のサヘルは1996年からブルキナファソでも砂丘の浸食防止、植林活動の活性化と、改良カマドの普及、女性活動の支援等を中心とした活動を開始している。
サヘル地域で日本人の常駐者を置き、活動している団体は以上の3団体であるが、いずれも首都からのアクセスが良いとは言えない遠方の農村に入り込み、出来るだけ地元民のレベルに近い生活をしながら(時にはマラリアや肝炎に罹患しながらも)、体験を通して理解しようと努力していることである。日本のNGOは欧米に比べて経験も浅く、資金力も小さいため、まだ力不足であることは否めないが、より一層現場体験を積むと同時に、地域住民や現地政府との協力関係はむろんのこと、支援側でも援助実施国政府や国際機関などの諸関連機関とも協調を取り、国境や地域を越えた砂漠化防止活動の実践が強く望まれる。
高橋 一馬