クトゥブ・ミナール
(文化遺産、1993年指定)
Qutb Minar and its Monuments, Delhi
イスラム最初の記念碑
デリー・サルタナット朝の創始者クトゥブッディーン・アイバク(?−1210年)は1200年頃に北インドを征服した。彼はクトゥブ・ミナール(クタブ・ミナールとも呼ばれる)を勝利の記念碑としてデリーに建立させた
(写真18)。ミナール(ミナレット)は
イスラム教(1)のモスク(礼拝堂)にある祈りの時を知らせるための尖塔である。クトゥブモスクとミナールの建立はイスラム教のインド到達の象徴である。
注(1)イスラム教:アラビア半島のメッカで予言者ムハンマドによって始められた宗教。アッラーを唯一絶対の神とする。
イスラム教徒は一日5回の礼拝、ラマザーン月(陰暦9月)の断食、一生に一度のメッカへの巡礼(ハッジ)、喜捨などを果たさなければならない。
12世紀以前から海上貿易を行うアラブ商人により、イスラム教がインドの寄港地にもたらされていた。インドでイスラム教が本格的に確立するのはデリー・サルタナット朝以後である。しかしヒンドゥー教徒のイスラムへの改宗は軍事力による強制よりも住民社会で教化に努めたスーフィー教団によるところが大きい。
現在インドのイスラム教徒は人口の11%を占め、ヒンドゥー教徒の83%と比べると遥かに割合は小さいが、宗教マイノリティーの中では最大の勢力であり、政治・経済・文化あらゆる面において無視できない存在である。
塔は高さ72m、5層に分かれている。アイバクの時代に作られたのは第3層までで、上部は14世紀に付け足された。塔は円柱形だが、赤砂岩で作られた表面は襞(ひだ)状で、縦方向にいくつも溝が走っており、唐草模様などイスラム特有の装飾が施されている(写真18、19)。
この地を最初に都と定めたのは12世紀はじめトマール・ラージプート族のヒンドゥー王朝だった。ラル・コット要塞が建設され、現在でも城壁と濠がところどころに残っている。12世紀後半にヒンドゥー王朝チャウハン国がこの地を占領しラル・コット要塞を拡大した。
モスク
ミナールと同じ敷地にあるクトゥブモスクはインドに於ける最初のモスクである。アイバクは周辺のヒンドゥー教寺院やジャイナ教寺院を廃止・解体し、それらの寺院の石をモスクの建材に流用したという。イスラム教では偶像崇拝は禁止され、建築に人物や動物の像が彫られることはない。装飾では草花を図案化したものや幾何学模様が中心となる(写真19)。しかし、ここではヒンドゥー寺院の建材をそのまま使用したために女神の像などが柱に残されている。モスクは1192年に建設が開始され6年がかりで完成し、クワトゥル・イスラーム(イスラムの力)と名付けられた。
拝殿跡のアーチ状の入り口の壁は赤砂岩で、唐草模様が施されている。その手前に鋼鉄の柱が立っている(写真21)。柱に刻まれているサンスクリット語によると、チャンドラ王(グプタ朝)を記念し、ヴィシュヌ寺院のために4世紀頃作られたことが分かった。クトゥブの地区で4世紀の遺跡は発見されていないことからこの鉄柱は別の場所にあったものを運んで来たと考えられている。1500年以上を経た今でも柱は錆びていない。
ミナールの足下にあるドーム付の四角い建物はアライ・ダルワーザ。モスクへの門である。初期のイスラム建築のなかでも均整のとれた美しい建物で、赤砂岩をベースに白大理石がうまく調和している。
クトゥブモスクはアイバクの後継者たちによって2回拡張されている。アイバクを継いだシャムスッディーン・イルトゥトゥミッシュ(1211-36年)は列柱と拝殿を付け加えた。アラウッディーン・カルジ(1296-1316年)はモスクの敷地を倍に広げた。今日、敷地の北側に巨大な円形の土台が残っている。アラウッディーンは倍の広さになったモスクにつりあう倍の高さのミナレットを建てようと試みたが未完成に終わった。
今日のデリー南部に位置するクトゥブ・ミナールは一大観光地としてにぎわっている。
参考文献:
平凡社『
イスラム事典』1982年。
Grewal, Bikram; Dubey, Manjulika ( ed.),
Delhi, Jaipur, Agra, Apa Publications, Singapore, 1994.
Sharma, Y.D.,
Delhi and Its Neighbourhood Archaeological Survey of India, New Delhi, 1990.