フマユーンの墓
(文化遺産、1993年指定)
Humayun's Tomb, Delhi
ムガル皇帝の墓
ムガル帝国(1)第2代皇帝フマユーン(1508−56年)は文人皇帝とも呼ばれ、戦争よりも、詩や文学、神学を愛した。彼は当時イスラム文化先進の地ペルシャから文物を多く取り入れた。彼の死後に作られたこの墓にもペルシャ様式が随所に現れている。
1556年に階段から転落死したフマユーン帝のために10年がかりで墓廟が建てられた。第一皇妃ベガ・ベガムが建設を命じた(写真22)。ペルシャ人による設計で、周りの広い庭園も墓廟との調和がはかられている。かつて庭園には花が植えられ、中央部から墓廟に向かって水が緩やかに流れていた。
注(1)ムガル帝国 :中央アジア、フェルガーナのティムール朝王子として生まれたバーブル(1483-1530年)が1526年に創始した北インドの王朝。ムガルの名はチンギス・ハーンのモンゴル帝国に由来する。最盛期にはインドの北半分を領土に収めた。18世紀まで栄え、その後は弱体化した。1859年に最後の皇帝バハードゥール・シャー(1775〜1862年)がセポイの大反乱の責任をとらされ、イギリスにより帝国は名実とも廃止された。
写真22 フマユーンの墓正面。建物にはイスラム建築によく見られる尖状アーチが反復して使用されている。墓廟本体を乗せている基壇は幅80m、高さは6.7m。背が高く、幅が広い基壇はムガル墓廟の特徴である。
本格的イスラム建築
建物本体は左右対称に構成されている。庭は正方形、長方形をいくつも組み合わせたデザインである。庭に植えられた花と通路の中心を流れる水路は乾燥した灼熱の北インドの地と対比して、フマユーンの祖先の地中央アジアの風景をイメージしていると言われる。墓廟は高さ6.7m、幅80mの基壇の上にある。
建物本体の高さは21m、幅は48m。中央の丸屋根(ドーム)には白大理石が使われており、建物の砂岩の赤色を引き立たせている。柱と柱の間や窓の周囲にはイスラム建築でよく見られる尖状アーチが多用されている(写真23)。アーチの線は左右が弧を描きながら上に向かい、中心で合わさっている。このような曲線を持つアーチを反復して使用することにより、建物に柔らかさが加わっている。窓に使われている赤砂岩の板にはまるで本物の糸で編んだように透かし彫りで編み目が表現されている。
写真23 基壇の登り口。ここにも尖状アーチの反復が見られる。
敷地には西と南にある門から入る。門も他の建物と同様、赤砂岩で造られ、二階建てである。
建物は赤砂岩をベースにところどころ白大理石が埋められ、配色も調和がとれている。墓廟の中央にはフマユーンの石の棺が置かれ、四隅の副房にはムガル王家の人々の墓が安置されている。フマユーン廟は後のタージ・マハルのモデルになった。
現状
建物は今日でも堅固で、崩壊などの危険はない。庭園は現在、水が流れていない。庭も文化財の一部であり、修復・管理のための対策が必要である。
フマユーンの墓はデリーの中心部にあるため観光客も多い。
参考文献:
渡辺建夫『タージ・マハル物語 』朝日新聞社、1988年。
Grewal, Bikram; Dubey, Manjulika ( ed.), Delhi, Jaipur,Agra, Apa Publications, Singapore, 1994.
Sharma, Y.D., Delhi and Its Neighbourhood, Archaeological Survey of India, New Delhi, 1990.
写真24 基壇上斜めから見たフマユーンの墓。
写真25 フマユーンの墓、入り口の門。背の高い門より手前からは墓廟の 白い丸屋根しか見えない。門も他の建物と同様のデザインで作られている。
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