ゴアは16世紀初頭まではイスラム王国ビジャプールの支配下にあった。1510年、ポルトガル総督アフォンソ・デ・アルブケルケ率いる艦隊がゴアを攻略し、以後ポルトガルのアジア戦略の拠点として栄えた。南アジアにおける一大キリスト教都市にもなった。最盛期には人口20〜30万人を数え、アジア中から3000人もの信者が神学を学ぶために集まっていた。日本からは16世紀に伊東マンショらの遣欧使節が訪れている。ゴアはその繁栄ぶりから、「黄金のゴア」や「ゴアを見た者はリスボンを訪れる必要がない」などと言われたほどであった。17世紀になると、イギリスやオランダのアジア進出により、ポルトガル勢力は衰え、さらにゴアの町ではコレラやマラリアが流行したため、人口が減少した。行政や商業などの都市機能も約15q海岸寄りのパナジー地区へと移っていき、18世紀には村落規模にまで縮小してしまった。衰退したものの、教会建築をはじめとする豊かな文化遺産が旧ゴアに残っている。
ポルトガルの栄光を偲ばせる建築群写真74 セ・カテドラル。1510年、ゴアの地を占領したポルトガル総督アフォンソ・デ・アルブケルケはキリスト教の守護聖人聖カタリーナに感謝し、ゴアの守護聖人として定めた。そして、セ・カテドラルがある場所に聖カタリーナの小聖堂を建てたのがこの地の始まりである。教会堂は1514年と1532年に改築され、さらに新しい教会堂として1619年に再建築が行われた。これが今日の姿の原型になっている。
生きた世界遺産のあり方
建築時にゴアの気候・風土はあまり配慮されず、ヨーロッパの建築方法がそのまま採用された。熱帯の湿度と高温からいかに建物を守っていくかが課題となっている。現存する建物群に関しても、崩壊や再建、数度の大修理を経て今日まで持ちこたえているのである。
ボン・ジェズスやセ・カテドラルには聖職者が常駐しており、ミサ等宗教行事も欠かさず行われている文化遺産である。そのため建物はインド考古調査局(ASI)とキリスト教会との共同で管理されている。しかし、修復については意見が対立することがしばしばあるという。
例えば、ASIは建物を湿気や雨から守るためにボン・ジェズス教会堂の表面に漆喰を塗るべきだと主張しているが、教会側は長年慣れ親しんできた建物の姿を変えることに難色を示している。
本来の価値を失わずに人々の使用にも耐える生きた文化遺産として管理することの難しさが現れている。
写真76 ボン・ジェズス教会堂の聖ザビエルの絵。ザビエルはコーチンなど南インド、マラッカ、モルッカ方面の布教に努めた。1547年、日本人アンジローとゴアで出会い、日本への布教の意志を固める。1549年から1551年まで日本に滞在し、日本にキリスト教を伝えた。ザビエルは中国布教の必要性を感じ、1552年に中国へ向かったが、上陸直前で病没した。死後、カトリック布教の保護聖人に列せられた。